普通學校 國史 巻二

朝鮮総督府編纂 普通學校 国史 巻二
昭和七年三月八日翻刻印刷
昭和七年三月八日翻刻発行
著作権所有 著作兼発行者 朝鮮総督府
翻刻発行兼印刷者 朝鮮書籍印刷株式会社
             京城府元町三丁目一番地
             代表者 井上主計
定価 二十銭



内 容
目 次
御歴代表(二)
第三十六 織田信長
第三十七 李退渓と李栗谷
第三十八 豊臣秀吉
第三十九 徳川家康
第四十   徳川家光
第四十一 徳川光圀
第四十二 徳川吉宗
第四十三 松平定信
第四十四 英祖と正祖
第四十五 国学と尊王
第四十六 攘夷と開港
第四十七 攘夷と開港(つゞき)
第四十八 孝明天皇
第四十九 王政復古
第五十   明治天皇
第五十一 大正天皇
第五十二 昭和の大御代
     一 明治維新
      二 西南の役
     三 憲法発布
     四 朝鮮の国情
     五 明治二十七八年戦役
     六 明治三十七八年戦役
     七 韓国併合
     八 明治時代の文化
     九 天皇の崩御
年 表


   
第三十七 李退渓(りたいけい)と李栗谷(りりつこく)
戰國時代には朝鮮では、成宗(せいそう)・中宗(ちゆうそう)・明宗(めいそう)及び宣祖(せんそ)などが、國王の位にゐました。これより先、太宗(たいそう)・世宗(せいそう)の頃から、佛教をおさへて儒學を奬勵したので、高麗の時代に榮えた佛教は次第に衰へ、これに代つて儒學はますます盛になり、李退渓・李栗谷などの名高い學者が出ました。
 李退渓は中宗・明宗の頃の人であります。十二歳の時、論語を讀んで、「弟子(ていし)に入つては則(すなは)ち孝、出でては則ち弟(てい)。」といふ語に感じ、それから熱心に學を修め徳を磨(みが)いて立派な人になりました。中宗の時、官に仕へたが、間もなく病にかゝつて職を辭し、慶尚北道の禮安(れいあん)に退いて多くの子弟を教育しました。その後、大堤學(だいていがく)に擧げられ、多くの人々から、その學徳を慕(した)はれました。死後には陶山書院(たうざんしよゐん)を建ててまつられました。退渓の學問は内地にも傳はりました。
 李栗谷は明宗・宣祖の頃の人であります。幼い時から詩文をつくり、成長するにつれてます\/學問を勵みました。宣祖の時、地方官となつてよく人民を治め、次第に高官にのぼりました。後、黄海道の石潭(せきたん)に塾(じゆく)をまうけて子弟の教育につとめ、また郷約(きやうやく)をつくつて社會化につくし、多くの人々から尊敬せられました。
 宣祖の時、金孝元(きんかうげん)と沈義謙(しんぎけん)とは仲がわるく、互に黨(たう)をたてて爭ひました。李栗谷は、黨派の爭が政治をみだすことを憂(うれ)へて、これをやめさせることに努めたが效がなく、その後次第に黨派の爭がはげしくなり、互に他のものを斃(たふ)して政權(せいけん)をにぎらうとしました。その後永く朝鮮人の間に、老・少・南・北の四色の別があつたのは、その名殘であります。


   
第三十八 豐臣秀吉(とよとみひでよし)
 豐臣秀吉は尾張(をはり)の貧しい農家に生れました。武士となつて名を天下に擧げようと志し、織田信長に仕へ、たび\/戰効を立てて、次第に重く用ひられ虫ト(はしば)秀吉と稱してゐました。
 秀吉は、中國の毛利氏を攻めてゐた時、信長の死を聞いて毛利氏と和を結び、急に軍をかへして明智光秀を滅ぼしました。これから秀吉の威勢(ゐせい)は俄かに盛になり、織田氏の武將は皆秀吉の命をきくやうになりました。
 その後秀吉は、大阪の地に堅固(けんご)な城を築きました。さうして天下を定めて信長の志を成しとげようとしました。
 朝廷は秀吉の効を賞して、しきりに官位をのぼせ、關白をお授けになり、太政大臣に任じ、豐臣といふ姓を賜ひました。
 秀吉はまた京都に聚楽第(じゆらくだい)といふ壯麗な邸宅を營み、第百七代後陽成(ごやうぜい)天皇の行幸を請ひたてまつり、自ら文武百官を率ゐてお供(とも)をいたしました。四方から集まつて來た士民は、その盛な御行列を拜觀して、「このやうな太平の世の有樣を見るのは、まことに思ひがけないことである。」といつて、涙を流して喜び合ひました。天皇は、五日の間、こゝにお留(とゞま)りになりましたが、その間に、秀吉は御料(ごれう)を獻上し、親王及び公卿の領分を定め、諸大名をして共々に皇室を尊ぶべきことを誓(ちか)はせました。秀吉はまた新に皇居をお造り申し上げ、京都の市街をも整(とゝの)へたので、朝廷の御様子も、京都の樣子も、信長の時よりは、一段と立ちまさりました。
 その後、天正十八年(紀元二千二百五十年)秀吉は大軍を發して、小田原(をだはら)の北條氏を攻滅ぼしました。應仁(おうにん)の亂後、百餘年の間、亂れに亂れてゐた國内は、こゝに始めて平定しました。
 秀吉は國内を平定した後、朝鮮に交を求め、その沿岸を荒らす海賊を取りしまりなどして好意を示しました。また明とも交を修めようとしたが應じないので、明を討つために朝鮮に案内を求めました。朝鮮は修交を承諾(しょうだく)せず、また明へ案内することをも拒(こば)みました。
 そこで秀吉は已むを得ず、道を朝鮮にとり、行軍を妨げるものを打破つて明に向はあと決心し、文祿元年、小西行長(こにしゆきなが)・加藤清正(かとうきよまさ)を先手として十三萬餘の大軍を渡らせました。その頃朝鮮は黨派の爭のために政治は亂れ、兵備もすたれてゐたので、この大軍を防ぐことが出來ず、宣祖は京城より義州に逃れました。行長は、その後を追つて平壤に進み、清正は東北の地方を定め、わが軍は三箇月ばかりの間に殆んど朝鮮の全部を從へました。この間にわが水軍は、行長等と連絡を保つてこれを助けようとしたが、朝鮮の南方の海上で李舜臣(りしゅんしん)のために破られて、その北上を沮(はば)まれました。清正はこの役で、武名をとゞろかしたばかりでなく、よく人民をあはれみました。
 明はこの有樣を見て、宣祖の請に應じ、大軍を朝鮮に送つたから、行長は平壤から退きました。明軍が進んで京城に迫ると、小早川隆景(こばやかはたかかげ)は、「大敵の攻寄せて來たのは仕合はせである。わが手竝を見せて日本に隆景のあることを思ひ知らせてやらう。」といつて立花宗茂(たちばなむねしげ)等と碧蹄館(へきていくわん)で明の大軍をさん\/に打破りました。
 明は大いに驚き、行長によつて和を求めたから、秀吉はこれを許して出征軍を引上げさせました。然るに明は講和(かうわ)の誠意がなく、その國書には、秀吉を日本國王にすると記してあつたので、秀吉はその無禮を怒つて明使を追ひかへし、再び出兵の命を下しました。
 慶長二年、清正・行長は、また先手となり、全軍これにつづいて渡海し、程なく朝鮮の南部を從へました。その年の末頃、明の大軍が淺野幸長(あさのよしなが)等を蔚山にかこみました。清正は急をきいてこれを救ふために城にはいつたが、城はまだ出來上らず、その上兵量(ひやうらう)も乏しかつたので、大層苦戰をつゞけました。間もなくわが援兵(ゑんぺい)が來たので、これと力を合はせて、大いに明軍を破りました。
 慶長三年、秀吉は病にかゝつて薨じました。出征の諸將は秀吉の遺言(ゆゐごん)によつて、兵をかへすことになりました。たま\/明の大軍が、島津義弘(しまづよしひろ)を泗川(しせん)に攻めたが、義弘は僅の兵で大いにこれを打破りました。また義弘は露梁(ろりやう)で敵の水軍をさん\/に破り、李舜臣等を斃(たふ)しました。その後、明軍はおそれてわが後をうかゞはなかつたので、諸將は無事に引上げました。
 このやうにして前後七年にわたつた戰は終を告げました。しかし明軍は、その後も朝鮮にとゞまつて、いろいろ横暴(わうばう)な振舞(ふるまひ)をしたので、朝鮮は一層疲弊(ひへい)しました。
 秀吉は輕い身分から身を起こして國内を平定し、皇室を尊び、人民を安んじ、國威を海外にまで輝かした英雄であるが、また極めてやさしい心持の人で、平生母に仕へてよく孝養を盡しました。
 朝廷は秀吉の大功を思召し、その社に豊國大明神(とよくにだいみやうじん)といふ號を賜ひ、正一位を授けられました。京都の豊國神社は秀吉を祀つた社であります。
 

第四十四 英祖と正祖
 後水尾(ごみづを)天皇の御代の頃、朝鮮の北方の滿洲に滿洲族が起つて國を建て、南に下つて半島の地に攻入りました。その時の朝鮮王仁祖は、難を避けて一時江華島(かうくわたう)に移りましたが、間もなくこれと和睦しました。ついで明正(みやうしやう)天皇の御代に至り、滿洲族は國號を清(しん)と稱し、朝鮮がその命に從はないのを怒り、再び大兵を出して攻寄せました。仁祖は南漢山城(なんかんじやう)に入つてこれを防いだが、力が及ばないので、つひに降りました。その後、朝鮮はながく清の屬國となりました。
 仁祖から數代に亙(わた)り、英祖と正祖とが相ついで立ちました。このニ王はともに力を民政につくし、農事をすゝめ、倹約を行はしめ、刑罰(けいばつ)をかるくし、大いに學問を奬勵し、また以前から盛であつた黨派の爭を除くことに心を用ひたので、凡そ七十年の間、朝鮮はよく治りました。けれどもニ王の後は、多くの幼主が立ち、政治はもつぱら外戚(ぐわいせき)がこれを行ふやうになり、王室は次第に衰へました。
 これより先、西洋の文化は、内地及び支那に傳はつたが、やがてこれらの地を經て、朝鮮にもはいつて來ました。正祖の時には、キリスト教を信ずるものが多くなり、支那から周文謨(しうぶんぼ)といふ宣教師も來ました。しかし正祖はキリスト教が政治に災を及ぼすことを心配して、これを信ずることを禁じ、その教に關係(くわんけい)のある書物をあつめて燒かせ、次の純祖(じゅんそ)の時には、周文謨をはじめ、多くの信者を刑に處しました。その後も、ひそかにキリスト教を信ずるものは絶えませんでした。




第四十五 國學(こくがく)と尊王(そんわう)

江戸幕府と外國との關係がはじまつて海防論が盛になりかけた頃、内には學問の進むにしたがつて、尊王論が大いに起こりました。
 從來學問と言へばたいてい漢學であつたが、僧契沖(けいちゆう)が出て國語・國文の研究をしてから、國學が始めて起りました。その後、國學は次第に盛になり、賀茂真淵(かもまぶち)や本居宣長(もとをりのりなが)のやうな學者が出ました。
 宣長は、これまでの漢學者の中にはみだりに、支那を尊ぶ風のあるのをなげき、多くの書物を著して、わが國體が萬國にすぐれてゐることを明かにしました。その著書の中で最も名高いのは古事記傳で、三十五年の長い年月をつひやし、全力をそゝいで著したものであります。
 宣長は大層櫻の花を愛し、自ら畫いた自分の肖像(せうざう)に、
  敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人とはば
              朝日ににほふ山櫻花(やまざくらばな)
と題し、常に書齊(しょさい)にかけておいたと言ふことであります。この歌は、わが日本魂(やまとだましひ)をよみあらはした名歌であります。
 宣長には日本全國に五百人に近い弟子がありました。これらの人々は、宣長の志をついで、盛に國學を唱へ、國體を明かにすることにつとめました。それ故、大日本帝國は、萬世一系の天皇が御親(みづか)ら大政をとりたまふべきであることがわかり、尊王論はますます勢を加へました。
 この頃、尊王を唱へた人々の中で、最も名高いのは高山彦九郎(たかやまひこくろう)と蒲生君平(がまふくんぺい)とであります。
 高山彦九郎は農業を勵み、暮方から遠方の師のもとに通つて熱心に學問を習ひました。十三歳の頃、太平記(たいへいき)を讀んで、楠正成・新田義貞などの忠義に大層感心しました。
 彦九郎は長ずるにしたがつて、ます\/忠義の志が深くなりました。かつて皇居が火災にかゝつた時、遙にこれを聞いて心配のあまり、夜を日についで京都に馳せのぼりました。また武者修行(むしやしゆぎやう)にならつて、廣く全國をめぐり、學問・徳行のすぐれた人々と交を結んで、常に尊王の大義を説きました。さうして京都を通る時は、必ず御所の門前に跪(ひざまづ)いてこれを拝し、謹んで皇室の尊さをあふぎました。後、九州に遊び、筑後の久留米(くるめ)で世の中の有樣をなげいて自殺しました。その息の絶えようとする時、座を正して遥に京都の方を拝したといふことであります。
 蒲生君平は幼い時から學問を好みました。ある時祖母からその家柄のよいことを聞いて志を起し、一層學問を勵みました。
 君平は學問の進むにつれて、朝廷の御威光の衰へたのを悲しみました。殊に御歴代の御陵の荒れてゐるのをなげいて、諸國をめぐり、多くの難儀をしのいで、神武天皇をはじめ、御代々の天皇の御陵を取調べ、山陵志(さんりようし)を著して、これを朝廷及び幕府にたてまつりました。この書が出たために、今まで世に知られなかつた御陵が明かになり、荒れてゐるものも、後に修められるやうになりました。
 明治になつてから朝廷は、彦九郎・君平の忠節(ちゆうせつ)を賞したまひ、位を贈てこれを表彰(へうしやう)なさいました。




第五十 明治天皇
一 明治維新(ゐしん)
 明治天皇は孝明天皇の第二皇子でいらせられ、嘉永(かえい)五年にお生まれあそばされました。御生れつき英明剛毅にわたらせられ、御幼少の時、藩兵の演習(えんしふ)を御覧になり、百雷の一時に落ちるやうな大砲・小銃のはげしいひびきの中でも、御顔色すらおかへあそばされませんでした。
 天皇は御即位の時、御年十六歳でいらせられました。さうして慶喜の大政奉還をお許しになり、今より後、すべての政は朝廷より出づべきことを天下に令したまひ、三條實美・岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝光などを重く用ひて、もろ\/の政をつかさどらせられました。こゝにおいて武家政治はやみ、天皇御親(みづか)に天下の大政を統(す)べたまふこととなりました。これを明治維新といひます。
 明治元年三月、天皇は紫宸殿(ししんでん)にお出ましになり、文武の諸臣を率ゐて御親ら親政の大方針を天地の神々に誓(ちか)ひ、これを國民にお示しになりました。それは、
   一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論(バンキコウロン)ニ決スベシ
   一、上下(シヤウカ)心ヲ一ニシテ盛ニ經綸(ケイリン)ヲ行フベシ
   一、官武一途庶民(クワンブイツトシヨミン)ニ至ルマデ各々ノ志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(ウ)マザラシメンコトヲ要ス
   一、舊來(キュウライ)ノ陋習(ロウシフ)ヲ破リ天地ノ公道(コウダウ)ニ基ヅクベシ
   一、智識ヲ世界ニ求メ大イニ皇基(クワウキ)ヲ振起(シンキ)スベシ
といふのであります。これを五箇條の御誓文(ごせいもん)といひます。新政の基は、これによつて定りました。
 この年、天皇は江戸を東京(とうきやう)と改め、やがてこゝに行幸あそばされました。鳳輦(ほうれん)はゆるやかに御所をお出ましになり、途中遙かに(以下は紛失のため、後に掲載します)



ニ 西南の役
 わが國と朝鮮とは、昔から深い關係の間柄(あひだがら)であるから、朝廷は外國と和親を厚くする方針をお立てになると、先づ使を朝鮮に遣はして好(よしみ)を修めることをす々めました。
その頃、李太王が朝鮮の王であつたが、まだ年少であるため、その父大院君が政をたすけてゐました。大院君は鎖國攘夷の方針をとつたので、朝鮮は慶應ニ年、多くのキリスト教徒を罪し、フランスの宣教師を殺し、江華島に迫つたフランスの軍艦を撃退(うちしりぞ)け、また明治四年にはアメリカ合衆國の軍隊が來て通商を求めたが、これを斷りました。それ故、わが國のす々めにも應ぜず、却つて禮を失ふ振舞がたび\/ありました。
 そのために國内には征韓論(せいかんろん)を唱へるものが多くなり、西郷隆盛は、自ら朝鮮に赴いて談判を試み、それでも聽かなければ兵を出してこれを伐たうと主張し、朝議(てうぎ)は殆ど決しさうになりました。しかし朝鮮とは、どこまでも親しくすべきであるといふ意見もありました。その中に明治六年、岩倉具視等は、歐米諸國をめぐつて歸つて來て、大いに征韓に反對したから、その事はつひにやみました。
 これにより隆盛は官を辭(じ)して鹿児島(かごしま)に歸り、私學校を興して子弟を教育しました。これらの子弟は政府のなすところに不平をいだき、明治十年、隆盛をおし立てて兵を擧げ、進んで熊本城を圍み、その勢は、一時頗る盛でありました。
 そこで朝廷は有栖川宮熾仁(ありすがはのみやたるひと)親王を征討總督(せいたうそうとく)として隆盛を討たしめられました。官軍は諸所に奮戰して賊を破り、熊本城を救ひ、つひに隆盛を鹿児島の城山(しろやま)に圍んでこれを斃(たふ)しました。これを西南の役といひます。後、天皇は隆盛の舊功(きうこう)を思召され、賊名を除き、位をお贈りになりました。
 この役に當り、天皇は大阪陸軍病院に御行せられて、親しく傷病兵(しやうびやうへい)をおいたはりになり、皇太后・皇后は、御親ら繃帯(ほうたい)をつくられて負傷者(ふしやうしや)に賜ひましたので、皇室の深い御めぐみに感泣せぬものはありませんでした。また佐野常民(さのつねたみ)等は、博愛社(はくあいしゃ)をたてて、敵味方の區別なく傷病者を治療しました。これがわが國赤十字社(せきじふじしや)の起りであります。


三 憲法發布(けんぱふはつぷ)

 明治のはじめ天皇のお下しになつた五箇條の御誓文の中に、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ。」と仰せられてあります。これは衆議(しゆうぎ)によつて政治を行ふ方針をお示しになつたものであります。政府は、この方針に基いて、地方官會議を東京に開いて、地方の政治を議せしめ、また府縣會を設けて民間から議員を選出させなどして、次第に輿論(よろん)を採用(さいよう)する道を開きました。
 これにつれて、民間で政治を論ずるものが多くなり、國民の政治思想は次第に發達し、速に國会を開かれたいと願ひ出るものが相ついであらはれました。天皇はこれを御覧あそばされ、明治十四年に至り、勅を下して、來る二十三年を以て國会を開くべきことを仰せ出されました。國民は大いによろこび、板垣退助(いたがきたいすけ)・大隈重信(おおくましげのぶ)等はおの\/政黨を組織して、國会の開設に對する用意をいたしました。
 天皇はまた伊藤博文(いとうひろぶみ)を歐洲に遣はして、各國の制度(せいど)を視察せしめられました。さうして博文の取調べに基いて、新に内閣(ないかく)の制度を定め、ついで地方の自治制(じちせい)をしき、つひに明治二十二年(紀元二千五百四十九年)紀元節のよき日を以て、天皇は正殿(せいでん)にお出ましになり、内外の官民を召して、大日本帝國憲法及び皇室典範(てんぱん)を發布(はつぷ)せられました。帝國憲法は天皇がわが國家を統(す)べたまふ大法を定めたもので、皇室典範は皇室に關する根本(こんぽん)の法則(はふそく)を定めたものであります。天皇は國民の幸福をはかり、相共に國運をすゝめたまはんとの大御心から、この重要な法典(はふてん)を御制定になり、國民こぞつて御仁徳を仰ぎ、和氣(わき)上下にみち\/てゐる中にこれを發布なさいました。これが欽定(きんてい)憲法で、外國に例のないことであります。國民はよろこびにたへず、皇恩の有難さに感激して、君國のために盡さうとする覺悟が一層盛になりました。
 翌二十三年、貴族院(きぞくゐん)・衆議院(しゆうぎゐん)の兩院議員(りやうゐんぎゐん)を東京に召集(せうしふ)し、天皇は親しく行幸あそばされて、第一囘の帝國議會をお開きになりました。議會はこれから毎年召集せられ、萬機公論に決する御思召は實際に行はれ、國運はいよ\/開けて行きました。

四 朝鮮の國情
 わが國では征韓論が起つた程であるのに、朝鮮はやはり鎖國攘夷の方針をつゞけてゐました。明治八年、わが軍艦が江華島に立寄つた時、不意に砲撃(はうげき)を受けたので、わが軍はたゞちに砲臺を陥れました。翌年わが國は使を遣はし、兩國互に親しくすべき道理を説いて、つひに修好條約を結ばせ、釜山・仁川・元山の三港を開かせました。世にこれを江華條約といひます。これは朝鮮が近世になつてから、外國と結んだ最初の條約であります。その後、歐米諸國もまた朝鮮と條約を結び、通商をはじめました。當時朝鮮の政治は甚だ亂れて、民力は疲弊(ひへい)し、國庫(こくこ)も大層窮乏(きゆうばふ)してゐました。明治十五年、久しく給米(きふまい)を受けることの出來なかつた兵士等は、不平のあまり暴動(ぼうどう)を起こして王宮に亂入しました。この騒動(さうどう)の時、日本公使館も燒かれたが、後朝鮮は厚くその罪を謝したので、わが國は今後を戒めました。
 然るに清國は、この事變に當つて兵を朝鮮に送り、大いに國政に干渉(かんせふ)しました。朝鮮の人々の中には、清國にたよらうとするものと、わが國にたよらうとするものとがあつて、互に爭ひました。明治十七年、清國兵の力をかりて不意にわが國にたよらうとするものを破り、ついでわが公使館を襲ひ、多くの官民を殺傷しました。この事變は清國が自分の力を振はうとして起つたのであるから、わが國は、朝鮮にその罪を謝せしめると共に、更に伊藤博文を清國に遣はし、李鴻章(りこうしやう)と天津(てんしん)に會して議判させ、兩國共に兵を朝鮮におかず、若し必要があれば、互に通知した後に出兵すべきことを約しました。これを天津条約といひます。

五 明治二十七八年戰役(せんえき)
 天津條約の結ばれた後も、清國はなほ朝鮮を屬國(ぞくこく)のやうに取扱ひ、ひそかに清國にたよらうとするものを助けたから、その黨のものは、おのづから勢を得て大いに政治を亂したので、つひに明治二十七年に至つて内亂が起りました。そこで清國は屬國の難を救ふためであると稱して、兵を朝鮮に送り、これをわが國に通知して來ました。よつてわが國も、公使館と居留民を保護するために兵を出し、清國と力を合はせて朝鮮の弊政を改めようとしたが、清國はこれを聽かず、かへつて己の慾望を遂げようとして大兵を送りました。同年7月清國の軍艦は豐島沖(ほうたうおき)で、不意にわが軍艦を砲撃して戰端(せんたん)を開いたから、わが軍艦は、たゞちに應戰してこれを破り、また陸軍も清國兵と成歡(せいくわん)に戰つて大いにこれに勝ちました。こゝにおいて翌月、天皇は清國に對して宣戰(せんせん)の詔(みことのり)を發せられ、ついで大本營(だいほんえい)を廣島に進められましたので、わが軍の士氣は大いに振ひ、天をも衝(つ)くばかりでありました。
 ちやうどこの頃、わが陸軍は平壤に集つてゐた清國兵を攻めてこれを追拂ひ、わが海軍は黄海において敵の大艦隊を打破りました。それよりわが軍は、陸に海に戰へば勝ち、攻むれば取り、翌二十八年、陸軍大將大山巖(おおやまいはほ)と海軍中將伊藤祐亨(いとういうかう)とは、力を合はせて敵の海軍の根據地である威海衞(ゐかいゑい)を陥れ、一方では遼東(れうとう)半島を占領し、まさに北京(ぺきん)に迫らうとしました。
 この形勢を見て清國は大いに恐れ、李鴻章をわが國に遣はして和を請はせました。よつてわが國は内閣總理(ないかくそうり)大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)をして、これと下關(しものせき)で談判させ、朝鮮の獨立をみとめること、遼東半島と臺灣・澎湖島(はうこたう)とをわが國に讓こと、償金二億兩(テール)(約三億圓)を出すこと等を清國に約束させて和を結びました。これは明治二十八年四月のことで、下關條約といひます。然るにロシヤ・ドイツ・フランスの三國は、わが國が遼東半島を領するのは東洋の平和に害があると稱して、これを清國にかへすやうにすゝめて來ました。わが國は内外の形勢を見て、そのすゝめをいれ、半島を清國にかへしました。この後、朝鮮は國號を韓(かん)と改め、わが國はこれを助けて、いろ\/政治をとゝのへさせました。
 臺灣は既にわが領地となつたが、島内には、なほわれに從きないものがあつたから、北白川宮能久(きたしらかはのみやよしひさ)親王は、近衞師團(このゑしだん)の兵を率ゐてこれをお討ちになりました。親王は所々に轉戰したまふうちに、御病氣におか々りになつて、つひに薨ぜられました。やがて全島は平定しました。後、親王を臺灣神社にお祀り申し上げました。
 この戰役は、東洋における近世の大戰爭であつたが、わが國はつひに清國を打破つて、國威をかゞやかすに至りました。この間、天皇は廣島大本營の狭い御室で日夜萬機を聞召され、軍人及び國民と辛苦を共にせられました。これを傳へ聞くものは、いづれも感激に堪へず、出征の將卒は、家を忘れ身をすてて忠勇をあらはし、國民はこぞつてこれを後援(こうゑん)し、上下心を一つにして君國のために盡しました。これがわが國の大勝利を得た理由であります。

六 明治三十七八年戰役
 ロシヤ・ドイツ・フランスの三國は、わが國にす々めて遼東半島をかへさせながら、その後清國に迫つて、ロシヤは旅順・大連などの地を、ドイツは膠州灣(かうしうわん)を、フランスは廣州灣(くわうしうわん)の地方を借受けたので、東洋の平和はかへつて害せられました。そこで清國人の中には外國人を嫌ふものが多くなり、つひに暴徒が起つてキリスト教の會室を燒き、宣教師を殺し、明治二十三年には、官兵もこれに加はつて、北京(ぺきん)にある各國の公使館を圍みました。よつてわが國をはじめ各國の軍は聯合して北京に攻め入つて、これを救ひました。そこで清國は暴徒を罪し、償金を列國に出して和を結びました。これを北清事變といひます。この事變において、わが軍は最も規律正しく勇敢(ゆうかん)に戰ひ、列國を感心させました。
 この事變に乗じ、ロシヤは大兵を滿洲に送つてこれを占領し、更に進んで韓國をも威壓(ゐあつ)しようとしました。これを見て、わが國は清・韓・兩國の領土を全くし、東洋の平和を保つために英國(えいこく)と同盟(どうめい)を結び、またしば\/ロシヤと談判して、兵を引上げさせようとしました。けれどもロシヤはこれに應ぜず、ます\/海陸の兵を増し、旅順の備を堅くし、戰意を示したから、明治三十七年二月、わが國は已を得ず、ロシヤとの國交を絶ち、天皇は宣戰の大詔(たいせう)を發せられました。
 わが陸軍は、先づロシヤの兵を韓國り追拂ひ、ついで諸軍海を渡つて遼東の野に轉戰し、滿洲軍總司令官陸軍大將大山巖は、これを統べて、敵の總司令官クロバトキンを遼陽(れうやう)に破り、敵が本國からの援兵(ゑんぺい)を合はせて、再び南下するのをむかへて、またこれを沙河(さか)に破り、士氣大いに振ひました。
 これと相應じて、わが海軍は、しば\/敵の海軍の本據地である旅順を攻撃し、また敵艦の出動を遮(さへぎ)るために、決死隊を募(つの)つて三度港口の閉塞(へいそく)を試み、ほゞその目的を達しました。この時、海軍中佐廣瀬武夫は七生報國(しちしやうはうこく)の文字を書殘して、暗夜港口に近づき、自分の乘つて行つた船を爆沈させて引上げる途中、敵弾(てきだん)にあたつて勇ましい戰死を遂げ、ながく軍神の名を殘しました。敵艦は、わが軍の攻撃に堪へかね、必死の勢で港外に逃れ出て、ウラヂボストックに走らうとしたが、待構へてゐたわが艦隊は、黄海において大いにこれを破り、またわが別艦隊は、ウラヂボストック艦隊の出動を發見して、これを蔚山沖で打破りました。これより海上には敵艦の影が見えなくなりました。
 旅順の要塞(えうさい)は、敵が東洋における根據地として築きあげた難攻不落(なんこうふらく)の堅城(けんじやう)で、敵將ステッセルが固くこれを守りました。陸軍大將乃木希典(のぎまれすけ)は軍を率ゐてこれに迫り、海軍と力をあはせて攻撃したが、敵も死力を盡して防ぐので、容易にこれを陥れることが出來ませんでした。しかしわが忠勇なる將卒は、一死君恩にむくいようと決心して突撃(とつげき)に次ぐ突撃を以てし、やうやく二百三高地を占領し、港内にかくれてゐた艦隊を悉く撃沈め、他の砲臺をもつゞいて占領したから、ステッセルは力がつきて、翌三十八年一月、城を開いて降を請ひました。天皇はステッセルが、自國のために盡した忠節を嘉(よみ)したまひ、武士の面目を保たしむべき旨をお傳へになり、城中の將校には、特に帶劒を許して本國に歸らしめられました。
 敵將クロパトキンは沙河の戰の後、六十餘萬の大軍を集めて奉天に據り、連敗の恥をす々がうとしてゐました。わが滿洲軍は、旅順の攻撃軍をも加へて、總軍凡そ四十萬、三十里にわたる戰線をしいて奉天に押寄せ、三面から攻めたてて大いに敵を破り、三月十日、全く奉天を占領し、敵兵四萬餘を捕虜(ほりょ)としました。
 この間にロシヤが遙(はる/(改行)遙/ばる)東洋に廻航(くわいかう)させた三十八隻の大艦隊は、次第に近づいて來て、ウラヂポストックに入らうとし、五月二十七日、いよ\/對馬海峡にあらはれました。わが聯合艦隊司令長官海軍大將東郷平八郎(とうがうへいはちらう)は四十餘隻の艦隊を率ゐてこれをむかへ、旗艦三笠(きかんみかさ)の檣(ほばしら)に、「皇國の興廢(こうはい)此の一戰にあり。各員一層奮勵努力せよ。」といふ信號(しんがう)を高く掲げました。これを見た將卒は勇み立ち、必ず敵を全滅しようと決心しました。をりから風は強く浪は高かつたが、わが軍はよく奮戰し、つひに敵艦十九隻を撃沈し、五隻を捕へ、その司令長官を虜(とりこ)にし、世界の海戰に例のない大勝を得ました。ついでわが別軍は、更に樺太に向ひ、たゞちにこれを占領しました。
 この後國民は、この戰役における海陸の大勝をながく記念するために、三月十日を陸軍記念日、五月二十七日を海軍記念日として祝意を表してゐます。
 アメリカ合衆國大統領(だいとうりやう)ルーズベルトは、日露(にちろ)の戰が久しくつゞいてゐるのを憂へてゐたが、今や戰役の大勢が既に定つたのを見て、兩國の間に立つて講和(かうわ)をすすめました。兩國はこれに應じ、わが國の全權委員外務大臣小村壽太郎(こむらじゆたらう)等は、ロシヤの全權委員ウヰッテ等と、合衆國のポーツマスに會して談判し、明治三十八年九月、つひに講和條約を結びました。これによつて、ロシヤは、わが國の朝鮮における特別な關係をみとめ、樺太の南半部を割(さ)き、長春(ちやうしゆん)旅順間の鐡道及び清國から借受けた關東州をわが國に讓りました。
 こゝにおいて天皇は國民の誠忠を嘉(よみ)したまひ、海陸の諸軍の凱旋(がいせん)をねぎらはせられ、また宇治山田市に行幸あらせられて、神宮に平和の囘復をお告げなさいました。この戰役もまたわが國が東洋の平和を維持(ゐじ)しようとする正義の念から起つたもので、日清戰役よりも更に大きな戰爭であつたが、よく強國ロシヤに勝つて國威を世界にかゞやかしました。これは一に天皇の御稜威(みいづ)によつたことは勿論であるが、また教育が國民に普及して、奉公の念がます\/強く、擧國一致して君國に盡したためであります。

七 韓國併合(かんこくへいがふ)
 わが國は明治のはじめから、ひたすら朝鮮の幸福をはかり、先づ修好條約を結んでこれを列國の間に出しました。しかし、韓國は獨立の實を擧げることが出來ず、常に他國に壓迫(あつぱく)されて動き、東洋の平和を破るおそれがあつたので、わが國はポーツマス條約によつて、新に韓國と協約(けふやく)を結んで、これをわが保護國とし、その外交を取あつかひました。さうして京城に統監府(とうかんふ)を置き、伊藤博文を統監に任じ、韓國の内政を改めることに力を盡させました。
 それより數年を經て、韓國の政治はおひ\/に改つたが、多年の弊政は容易に除かれず、民心はなほ不安を免(まぬか)れませんでした。その上、歐米諸國の勢力が盛に東洋に入込んで來る時に當つて、共に國利民福を完(まつた)うするためには、日韓兩國が合(がつ)して一つになるより外によい道がないのであります。元來内地と朝鮮とは神代以來、最も親しく往來した間柄で、氣候・風土・人情・風俗がよく似かよひ、また同じ文化を持つてゐるので、互に融合することもむつかしくないのであります。そこで韓國人の中にも、熱心に併合を望んで、兩國政府に願ひ出るものが次第に多くなりました。韓國皇帝もまたこのことをお思ひになり、民意をいれて、明治四十三年八月、(紀元二千五百七十年)統治權(とうぢけん)を天皇にお讓り申し上げ、帝國の新政によつて、ます\/人民の幸福が増進することをお望みになりました。天皇もまた併合の必要をおみとめになつて、韓國皇帝のお申し出でを受けたまひ、永久に韓國を併合せられました。さうして前(さき)の韓國皇帝を王となし、皇族の禮を以て王家(わうけ)を待遇せられ、韓國を改めて朝鮮と稱し、新に總督を置いてもろもろの政務を統べさせられました。この時、下された詔書(せうしよ)の中に、
  民衆ハ直接朕カ綏撫(スキブ)ノ下(モト)ニ立チテ、其ノ康福(カウフク)ヲ増進スヘク、産業及
  貿易ハ治平ノ下ニ顯著(ケンチヨ)ナル發達ヲ 見ルニ至ルヘシ。而シテ東洋ノ平和ハ之ニ依リテ愈ゝ
  其ノ基礎ヲ鞏固(ケフコ)ニスヘキハ、朕ノ信シテ疑ハサル所ナリ。
といふ御言葉があります。實に明治天皇は、父が子を思ふやうな深い御愛情を以て、朝鮮の人民の幸福を思召されたのであります。
 この時から半島の民は悉く帝國の臣民として、皇室の御威徳を仰ぐやうになり、東洋平和の基はいよ\/固くなりました。この後、教育は普及(ふきふ)し、交通・通信は開け、産業は發達して、臣民の康福は増進して已むところを知りません。


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