普通學校國史 巻一

普通学校国史 巻一
昭和七年三月八日翻刻印刷
昭和七年三月八日翻刻発行
著作権所有 著作兼発行者 朝鮮総督府
翻刻発行兼印刷者 朝鮮書籍印刷株式会社
             京城府元町三丁目一番地
             代表者井上主計
発行所 朝鮮書籍印刷株式会社
      京城府元町三丁目一番地
定價 二十銭


目 次
御歴代表(一)
第一 天照大神
第二 神武天皇
第三 皇大神宮
第四 日本武尊
第五 昔の朝鮮
第六 神功天皇
第七 仁徳天皇
第八 三国の盛衰
第九 聖徳太子
第十 天智天皇
第十一  新羅の統一
第十二  聖武天皇
第十三  桓武天皇
第十四  最澄と空海
第十五  菅原道真
第十六  高麗の王建
第十七  藤原道真
第十八  後三条天皇
第十九  源義家
第二十  平氏の勃興
第二十一 平重盛
第二十二 武家政治の起
第二十三 後鳥羽上皇
第二十四 高麗と蒙古
第二十五 北條時宗
第二十六 後醍醐天皇
第二十七 楠正成
第二十八 新田義貞
第二十九 北畠親房と楠正成
第三十   菊池武光
第三十一 足利氏の僭上
第三十二 朝鮮の太祖
第三十三 足利氏の衰微
第三十四 足利氏の衰微
第三十五 後奈良天皇
年 表


   
第五 昔の朝鮮
 昔、箕子(きし)といふ人が支那から来て、半島の北部に国を建て、平壤(へいじやう)に都(みやこ)をさだめてよくその國を治めたといはれてゐます。後、その地方は支那のために攻め取られて、半島の大部分はその領地(りやうち)となりました。

 その頃、半島の南部は馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・卞韓(べんかん)の三つの地方に分れ、それらの地方はさらに小さな國々に分れてゐました。そこに住む人々は海をわたつて早くから内地と往來しました。
 崇神天皇の御代に、辰韓の地方から朴赫居世(ぼくかくきよせい)といふ人が出て、新羅(しらぎ)の國を建てて、その王となり、内地から渡つて來た瓠公(ここう)を用ひてよく國を治めました。同じ御代に満洲(まんしう)の地方に朱蒙(しゅもう)といふ人が出て、高句麗(かうくり)の國を建てて、その王となりました。高句麗はまた高麗(こま)ともいひました。垂仁天皇の御代に、朱蒙の子の音褞祚(をんそ)は南に下つて馬韓の地方に百濟の國を建てて、その王となりました。新羅・高句麗・百濟のことを三國といひます。
三國の中、はじめは百濟が強かつたが、後に高句麗が強くなつて、満洲から半島にかけて支那の領地を攻め取り、しだいに南の方に下り百濟とあらそひはじめました。
 新羅もまたその勢がだん\/さかんになつたので、卞韓の國々はこれに苦められるやうになりました。そこでその中の任那(みまな)といふ國が使を崇神天皇のもとにおくつて救(すくひ)をもとめたから、天皇は將軍をつかはしてその地をしづめさせられました。任那はまた大加羅(おほから)ともいひました。その後朝廷(てうてい)では任那に日本府をおいて、その地方を治めさせました。
 このやうに朝鮮は遠い昔から内地と深い關係(くわんけい)があり、内地に歸化(きくわ)した人々も少くありませんでした。新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)もその一人で、世に名高い神功皇后(じんぐうくわうごう)はこの人の子孫でいらせられます。


@文中「褞祚」の「褞」の偏は、原文では示偏ではなくサンズイですが、表記できないために便宜的に「褞」としてあります。
   
第六 神功皇后(じんぐうくわうごう)
 
神功皇后は第十四代仲哀(ちゆうあい)天皇の皇后で、お生れつき賢(かしこ)くをゝしくいらせられました。天皇の御代に、九州の熊襲(くまそ)がまたそむきましたから、天皇は皇后と御一しよに九州にみゆきしてこれをお討ちになりましたが、御病氣のためおかくれあそばされました。
 この頃、朝鮮では新羅の勢がます\/強くなり、その上内地にも近かつたから、熊襲はこれを力にしてそむいたのでした。そこで皇后は、まづ新羅をしたがへたならば熊襲は自然に平ぐであらうとおぼしめされ、武内宿禰(たけうちのすくね)と御相談になり、御みづから軍をひきゐて新羅をお討ちになりました。
 皇后は男子のすがたをあそばされ、多くの軍船(いくさぶね)をひきつれて對馬(つしま)にわたり、間もなく新羅の海岸にお着きあさばされました。 新羅王は皇后の御勢(いきほい)の盛なのを見て大いに恐れてたゞちに降参(かうさん)し、毎年貢物(みつぎもの)をたてまつり永くかはらぬことをちかひましたから、皇后はこれを許(ゆる)して凱旋(がいせん)あそばされました。時に紀元八百六十年であります。
 その後、百濟・高句麗のニ國もやがて皆朝廷(てうてい)にしたがひ、熊襲もまたそむかなくなりました。
 第十五代應神(おうじん)天皇の御代になつて、阿直岐(あちき)・王仁(わに)などの學者が百濟から内地に渡つて、支那の學問を傳へ、その子孫は文筆(ぶんぴつ)をもつて永く朝廷のためにつくしました。 その外いろ\/の人々がたくさん朝鮮から渡つて機織(はたおり)・裁縫(さいほう)・鍛冶(かじ)などの業(わざ)をも傳へました。天皇はまた使を遠く南支那の地方につかはされて、機織や裁縫の工女を呼び寄せられ、ます\/世の中の開けてゆくやうにおつとめあそばされました



   

第八 三國の盛衰(せいすゐ)
 仁徳天皇の頃から、朝鮮の有樣はだん\/かはって來て、高句麗はしきりにその領地をひろめ、そのために百濟の領地は大さうちゞめられました 第十九代允恭(いんぎょう)天皇の御代(みよ)に、高句麗の長壽王(ちやうじゆわう)は都を満洲の地から平壌にうつし、また百濟の都をおとしいれて、その王を殺しました。 そこで百濟は新羅と力をあはせ、朝廷(てうてい)の助をかりて、高句麗をふせぎました。
 百濟の都は京畿(けいき)道の廣州(くわうしう)でしたが、高句麗のためにこれを取られたから、忠清(ちゆうせい)南道の公州(こうしう)にうつり、後また扶餘(ふよ)にうつりました。このゆうにして百濟の國はだんだんおとろへてゆくばかりでした。
 新羅は百濟とちがつてます\/強くなり、高句麗から多くの地を取りかへし、また百濟ともあらそふやうになりました。そしてその都はいつもかはることなく、慶尚(けいしやう)北道の慶州(けいしう)でありました。
 仁徳天皇の御代に、佛教(ぶつけう)がはじめて支那から高句麗に傳はり、百濟にも傳はりました。それからしばらくたつて、高句麗から新羅にも傳はりました。
 第二十九代欽明天皇の御代に、百濟王は佛像(ぶつぞう)や經文(きやうもん)などを朝廷にたてまつりました。それは紀元千二百十二年のことでした。これから内地にも佛教が盛におこなはれるやうになりました。



  
第十 天智(てんぢ)天皇
 推古天皇の御代の頃、朝廷の政治にあづかつて最も勢のあつたのは武内宿禰の子孫である蘇我氏でありました。蘇我蝦夷(そがのえみし)もその子入鹿(いるか)もともに心のよくないもので、大さうわがまゝのふるまひをしました。入鹿は第三十五代皇極(くわうぎよく)天皇の御時、聖徳太子の御子山背大兄王(やましろおほえのわう)の賢くおはしますのをおそれて、これをほろぼし少しも朝廷をはゞかりませんでした。
 中臣鎌足(なかとみのかまたり)はこの有樣を見て大さういきどほり、入鹿父子をのぞかうと考へました。そして皇極天皇の御子中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)のすぐれたお方であり、蘇我氏の無道(ぶだう)をにくんでゐられるのを知つて、ある時、蹴鞠(けまり)の會で、皇子のお靴(くつ)のぬげたのを取つてさし上げ、それから皇子にお近づきになり、御一しよに入鹿をほろぼす謀(はかりごと)をめぐらしました。たまたま朝鮮から貢物(みつぎもの)をたてまつつたので、大極殿(だいごくでん)で式を行はれる日、皇子は鎌足をはじめ同じ志の人々と一しよに入鹿の不忠を申し上げました。そして蝦夷につきしたがふものに、わが國は昔から君臣の別のあることをいひ聞かせましたところ、その人々はちり\/ににげ去りましたから、蝦夷もその家を燒いて自殺してしまひました。
 やがて皇極天皇は御位を御弟三十六代孝徳(かうとく)天皇におゆづりになり、中大兄皇子はその皇太子(くわうたいし)となられました。皇太子は天皇をおたすけして大いに政治を改め、これまで勢のあるものが多くの土地をもつて氣まゝに人民を使つてゐた習はしをお改めになり、これらの土地と人民をこと\/く朝廷に納(をさ)めさせられました。世にこれを大化(たいくわ)の新政(しんせい)といひます。大化とはこの時始めて定められた年號であります。大化元年は紀元千三百五年にあたつてゐます。
 孝徳天皇がおかくれになつて後、皇極天皇が再び御位にお即きあそばされました。これを第三十七代齋明(さいめい)天皇と申し上げます。中大兄皇子はなほ皇太子としてひきつゞいて政治をおとりになりました。
 この頃朝鮮では新羅の勢がます\/盛になり、支那では隋がほろんで唐(たう)といふ國がおこりました。そこで新羅の武烈王はその臣金?信と相談して、百濟をほろぼすために唐のたすけを求めました。唐は大軍を出して新羅と一しよに百濟を攻めたので、百濟の王はつひに唐の軍に降参しました。ところが百濟の人々は使を朝廷に送って、すくひをお願ひしました。天皇はこれをお許になり、皇太子と一しよに九州に行幸(みゆき)されましたが、間もなく行宮(あんぐう)でおかくれあそばされました。よつて皇太子が御位にお即きになりました。これを第三十八代天智天皇と申し上げます。天皇は兵を出して百濟をすくはしめられましたけれども、百濟はつひに全くほろぼされてしまひました。そこで天皇は國内の政治をお改めあそばすことにおせはしくいらせられましたので、つひに軍をお引上げになりました。
 この後、天皇は都を近江(あふみ)にうつされ、鎌足に命じていろ\/の新しい法令(はふれい)を定めさせられました。この法令は後に第四十二代文武天皇の大寶年間になつて大いに改められ、大寶律令(たいはうりつりやう)といはれて永く政治の本となりました。
 中臣鎌足は蘇我氏を滅ぼしてから二十年あまりの間、朝廷に仕へて大功(たいこう)をたてましたので、天皇から大さう重んぜられて、大織冠(たいしよくくわん)といふ最も高い位を授(さづ)けられ、また藤原といふ姓をもたまはりました。後の世に榮えた藤原氏はこれから始つたのであります。大和の談山神社(だんざんじんじや)は鎌足を
祀つた社であります。
   
第十一 新羅の統一
 唐は新羅と共に百濟を滅ぼした後、さらに新羅の助をかりて高句麗をも滅ぼしました。高句麗はこの頃もなか\/強くて、さきに隋の軍に攻められ、またついで唐の軍に攻められましたが、いづれもこれを破つてよういに屈(くつ)しませんでした。ところが最後には唐の軍のために平壌を圍(かこ)まれ、新羅の文武王(ぶんぶわう)も兵を出して唐の軍を助けたので、高句麗はつひに滅ぼされてしまひました。
 唐は百濟と高句麗とを滅ぼし、これをその領地として治めましたが、新羅の文武王はしだいにもとの百濟の地をあはせ、その上もとの高句麗の地であつた大同江以南をも取り、半島の半分以上をあはせました。これを新羅の統一といひます。
 新羅の統一時代はこれから凡そ二百六十年程つゞきました。その間、新羅は唐に從つてゐましたから、その文化が傳はり、名高い學者や僧侶(そうりよ)が出ました。また美術(びじゆつ)も大いに進みました。しかしその間にもやはりわが朝廷に貢物をさし上げてゐました。



   
第十六 高麗の王権
 宇多天皇の御代の頃から、新羅の政治がみだれたので、あちらこちらに兵をあげて自ら王と名乗(なの)るものが出て來ました。そして國内は分れて三つとなりました。その中の一つに泰封國(たいほうこく)といふのがありましたが、その王は行があら\/しかつたため、部下の人々はこれをおひ出し、王権といふ人を迎へて自分たちの王としました。
 王権は松嶽(しやうがく)の人でした。松嶽は今の開城(かいじやう)の地であります。王権はもと泰封國の王に仕へ、多くの戰に出てたび\/功をあらはしましたから、大さう人望(ぼう)がありました。それで多くの人々に迎へられて王の位にのぼり、國號(がう)を高麗(かうらい)と改め、都を開城に奠めました。これが高麗の太祖であります。その時はちやうど醍醐天皇の御代にあたつてゐます。
 その後、高麗の勢はます\/盛になり、やがて新羅の王を降してその土地をあはせ、また他の國をも攻め滅ぼし、遂に半島の大部分を統一しました。新羅は初から九百九十二年をへて亡びたのであります。
 太祖の孫成宗(せいそう)は賢い君で、よく國を治め、その基をかたくしました。この頃、北の方から契丹(きつたん)が攻め込んで來ました。高麗はこれに敵することが出來ず、遂にその屬國となりましたが、その後もなほ時々これと戰を交へました。姜邯賛(きやうかんさん)といふ大將は契丹の軍を破つて大さう勝つたことがあります。



   
第二十四 高麗(こうらい)と蒙古(もうこ)
 高麗は太祖の時から凡そ百年をへた文宗(ぶんそう)の時、國内がよく治り佛教が頗る盛で、學問や美術も大いに進みました。

 文宗から數代をへて仁宗(じんそう)に至り、權臣が政治をもつぱらにし、また内亂が起つたので、國力がしだいに衰へて北方の金(きん)の國に屬するやうになりました。次の毅宗(きそう)はあまり政治に心を用ひなかつたので、文臣と武臣との間にはげしい爭が起りました。そして武臣は多くの文臣を殺し、また王を廢し、ついでこれを弑(しい)するに至りました。これからは全く武臣の世の中となりました。それは第八十代高倉天皇の御時で、平氏の盛な頃であります。
 土御門天皇の頃、支那の北方にある蒙古がにはかに強くなり、しだいに多くの地方を攻め取つて大きな領地を支配(しはい)するやうになりました。
 高麗は毅宗から數代をへて高宗の時に至り、蒙古に攻められて都を關城から江華(かうくわ)島にうつしたので、國中は蒙古の兵のためにあらされました。そこで高宗は太子を蒙古に遣はして臣としての禮儀をつくしましたので、その災(わざはひ)はやうやくやみました。
 太子は蒙古から歸つて後、王の位に即いて元宗(げんそう)となりました。この王は再び都を關城にうつしましたが、高麗は全く蒙古の屬國となりました。その後、代々の王はます\/かれに親しみ、國内に命じてかの國の衣服を用ひさせるほどでした。



   
第二十五 北篠時宗(ほうでうときむね)

 北條義時は免すことの出來ない無道の行をしましたが、その子孫の時宗(ときむね)は蒙古の大軍を打破つて大いにわが國威を輝(かゞや)かしました。時宗は時頼(ときより)の子で相模太郎(さがみたらう)といひ、豪氣(がうき)な生れつきで弓の名人でした。ある時、將軍が武士逹を召して弓を射させましたところ、人々は射そんじてはならないと思つてためらつてゐたのに、僅に十一歳になつたばかりの時宗は少しも臆(おく)せず、ひとり馬に乗つて進み出て、たゞ一矢で的(まと)に射あて、大いに譽(ほまれ)をあげたことがありました。時宗は第九十代龜山(かめやま)天皇の御代に十八歳で幕府の政治を執りました。
 その頃、蒙古はすでに高麗を従へようと思ひ、高麗王に命じて無禮(ぶれい)な書をわが國に送らせました。時宗はこれを見て大いに怒つてその使をしりぞけました。
 その中に蒙古は支那の大部分を取つて國を元(げん)と名づけました。第九十一代後宇多(ごうだ)天皇の文永(ぶんえい)十一年に、元の軍は高麗の軍を合はせ、凡そ四萬人を以て對馬(つしま)・壹岐(いき)をおかし、筑前におしよせて博多(はかた)の附近に上陸しましたが、わが將士は勇ましくこれを防いで遂に敵軍を追い拂ひました。世にこれを文永の役といひます。
 その後、元の勢はます\/強くなつて、また使をわが國に遣はしましたが、時宗はいよ\/決心を固(かた)くして、その使を斬らせ、防壘(ばうるゐ)を博多灣(はかたわん)の海岸に築かせて、元軍の來寇(らいこう)に備(そな)へました。
 その間に、元は全く支那をあはせたので、弘安(こうあん)四年に再び四萬の兵を廢して朝鮮半島から筑前に向はせ、別に支那から十萬の大軍を出しました。朝鮮半島から來た兵は先ず壱岐を侵(おか)して博多にせまりましたが、菊池武房(きくちたけふさ)・河野通有(かうのみちあり)等の勇士が或は防壘に據つてこれを防ぎ、或は敵艦(てきかん)を襲(おそ)うてこれをなやましました。ついて支那から來た大軍が、さきの軍と一しよになつて、まさに攻めよせようとした折柄(をりから)、にはかに大風が起つて敵艦は多く沈沒(ちんぼつし)し、溺(おぼ)れて死んだものが數へつくされない程でした。逃げおくれた將士は肥前(ひぜん)の鷹島(たかしま)に集りましたが、或は殺され或は捕へられました。世にこれを弘安の役といひます。
 この二度の役はわが國未曾有(みぞう)の大難でしたが、龜山上皇は大にこれを憂へられて、かしこくも御身を以て國難に代(かは)らうと伊勢の神宮にお祈りになり、時宗は大決心を以て事にあたり、國民も皆奮(ふる)ひ起ち上下心を一にして、遂にこの強敵(きやうてき)をしりぞけました。これより後、再び元はわが國をうかゞひませんでした。



   
第三十二 朝鮮の太祖(たいそ)
 足利氏が勢を得た頃から、内地の沿海の民で國内のさわぎにまぎれて海を渡り、朝鮮半島や支那の海岸を荒すものがありました。これは倭寇(わこう)とよばれて大いに恐れられました。高麗はしば\/兵を出してこれを討ちましたが、その效(かう)がありませんでした。
 一時勢の強かつた元は、第九十八代長慶(ちやうけい)天皇の御代に、新におこつた明(みん)のために追はれて蒙古に逃げ歸りました。高麗の朝臣達(てうしんたち)の間には明に仕へようとするものと、もとの通り元に仕へようとするものとのニ派に分れて爭ひましたが、遂に明に仕へようとする李成桂(りせいけい)・鄭夢周(ていむしう)等の方が勝ちました。
 李成桂は咸鏡(かんきやう)南道で生れましたが、その先祖は全羅北道全州(ぜんしう)の李氏であります。生れつき賢明で、力が強く騎馬(きば)をよくし、また弓の名人でありました。成桂の父は高麗に仕へ、永興(えいこう)地方にゐて北方を治めましたが、成桂に至つて、たび\/功を立てて、その名をあらはしました。そして高麗王昌(しやう)を廢し恭讓王(きようじやうわう)を迎へて王とし、國政をつかさどつて大いに勢を振ひました。
 成桂の勢が盛になるにつれて、多くの朝臣は成桂を王の位に即けようと望みましたが、鄭夢周等はあくまでこれに反對し、成桂をのぞかうとしてかえつて殺されました。成桂にくみする人々は後龜山天皇の元中九年、恭讓王を廢し、成桂をいたゞいて王としました。高麗はたいそ王建の即位から四百七十五年で亡びました。
 成桂は王位に即いて後、使を明に遣はして、その許を受け、また明から朝鮮といふ國號をもらひました。これが朝鮮第一代の王の太祖であります。この後、代々の王は位に即くごとに明の許を受けました。太祖は都を開城から京城にうつし、景福宮を建ててこれを王宮(わうきゆう)としました。
 太祖の後、凡そ百年の間は國内が能く治り、人々は安心してその業に從ひ、朝鮮の盛な時でありました。この間に太宗(たいそう)・世宗(せいそう)・世祖(せいそ)などの英主が位にのぼり、太宗は活字(くわつじ)をつくつて多くの書籍(しよせき)を印刷(いんさつ)し、世宗は諺文(おんもん)を制定(せいてい)し、世祖は法典(はふてん)をこしらへました。また太宗・世宗の時から佛教をおさへて儒學(じゆがく)を獎勵しました。



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